magnet magazine no.61

LONG DAY’S JOURNEY INTO NIGHT interview by Bob Mehr

腐りかけた鯨の死体は特有のむかつくような悪臭を放つ。ちょっとした組織や骨の切れ端であっても、どんなに丈夫な胃の持ち主でさえも耐えられないほどの悪臭を発する。
7月にサンフランシスコのオーシャンビーチに 20000ポンド、40フィートの鯨が打ち上げられた。死骸が傷つき、侵食されたときの悪臭は言い難いものだった。だがしかし、多くの人が—ある者は医療用マスクをし、ある者は布きれで顔を覆い—その怪物を見にやってきた。やってきた人々はその巨獣の大きさにただ感嘆した。エコフレンドリーなカリフォルニアは、さっそくこの鯨を家族の一員として迎えることにした。鯨は、「オビー」と名付けられた。そして、多くの見物人は悲嘆にくれていた。3日間、カメラクルーやニュースレポーターが波打ち際まで降りていき、悲痛の表情でレクイエムを捧げていた。オビーは、7月22日に正式に葬儀を執り行われ、埋葬されると発表された。

しかし、その葬儀の前夜、何ものかがオーシャンビーチにナイフを手にあらわれ、その体に文字を刻み込んだ。夜が明け、切り刻まれたものを見て、人々はショックを受けた。誰がこんなことをしたのか、どうしてこの神聖なる神の創造物を汚すことができたというのか?そして、彼等は、「B.R.M.C.」とはいったい何の意味があるのかと思い巡らせた。

BRMCのロバート・ターナーが、その次の日事件現場からさほど遠くないクラブでサウンドチェック中にその話を聞いた時、彼は動きを止め、まるでそうしていないと頭がどうかしてしまうのではないかというように、両手で押さえ付けた。
「ちょっと横にならないといけないってことだと思うよ」半分ジョークめかして彼は言った。
それは、BRMCと過ごした、エンドレスのプレス/パフォーマンス、そしてプロモーションの4日間のクライマックスとしては、非常に奇妙なものだった。そのころ、バンドはサンフランシスコに到着していたが、同時にシュールな出来事が増えてきていた。まるで、鏡の国のアリスのような。
ルイス・キャロルがそうしたように、物語を最初から始めるとしよう。

Portland July 21 7:27pm
エアポートセキュリティーは、ロバート・ターナーには特に厳しくあたるようだ。それはひょろっとした体躯からか、モップのようなくしゃくしゃの髪のせいなのか、マットブラックの服装のせいかもしれない。理由はどうあれ、ターナーの何かが「ランダム・バッグ・チェック」と叫ばせるようだ。ターナーはそれに懲りて、白いゴルフハットにその髪を隠すようにしていた。彼は、これは成功間違い無しだといっていたが、今日はそのヘッド・ピースを家に置いてきてしまった。そしてLA空港のスタッフは身体検査を命じた。そのせいで、BRMCはオレゴンへのフライトを逃してしまい、バンドがやっとポートランドの Berbat’s Panに着いた時には、ヴェニューの窓からは夕日が差し込んでいた。

BRMCにとって、これがここ1年ぐらいの間で初めてのアメリカンツアーとなる。そして、これが小さなクラブで演奏する最後のツアーとなるだろう。バンドの2枚目のアルバムはひと月以内にリリースされ、メタリカ、ブラーなどと共にレディングとリーズのヘッドライナーを務めるためにヨーロッパに戻る前に、サンフランシスコでいくつかの予定が残されている。

BRMCのクルーが今夜のショウのためのセッティングを急いでいる。クルーの中には、ターナーの父であるマイケル・ビーンもいる。彼はいま、口に懐中電灯をくわえ、サウンドボードに屈み込んで、ステージを休みなく飛び回っているピーター・ヘイズにあわせて、つまみを調整している。空港での遅れがタイトなスケジュールをさらに悪化させている。開場は15分後だ。ということは、バンドは大急ぎでサウンドチェックを済ませなければならないということだ。ターナーはグリーンのアーミーコートを脱ぎ捨て、ベースをひっ掴むと、ドラマーのニック・ジャーゴの姿が見えないことに気付いた。
「ニックはどこ?」と叫んだ。
ロードマネージャーがニックはこの大変な危機的状況を抜けて、マッサージでも受けに外出することを選んだといった。ふだんは、感情を表にあらわすことのないビーンまでもが、笑い声をあげた。これで、目に狂気を漂わせ、才能に溢れたジャーゴは、とんでもないアホだと証明された。

彼らが初めて一緒に演奏したのは、1998年のことだった。サンフランシスコのCocodrieクラブで、アート・ノイズバンドのthe Wave(現Stratford 4のヴォーカル、chiris strengが率いていた)でプレイするターナーとヘイズを見るために、ジャーゴは現れた。
「ニックは、あの時かなり飲んでて、マラカスを振りながら、ステージに上がってきたんだ」ターナーが思い起こす。
「曲の終盤で、ヤツはシンバルにマラカスを投げ付けたんだ。そしたら、それが弾けて、 白い粉が雲みたいにそこら中に飛び散ったんだよ。で、やつは下りていったんだよ。奇妙な瞬間だったよ」
さらに、その夜、事態はさらにおかしなことになっていった。

ヤバいブツの嵐のまっただ中で、パーティは、ジャーゴが猛スピードでベイブリッジを走るヘイズのバンから飛び下りようとして終わりを告げた。
「どのみち、その前からやつを殺っちまうことはできたんだけどね」ターナーが言う。
「ヤツは、生意気なことを言ったり、やったりしつくしたんだから。おれが覚えてるのは、ピートが片手で、ヤツが車から飛び出さないようにパンツの後ろを掴んでて、もう片方で運転してるのを、車の後ろのシートに座って見てたってことだけ。そんなことがあったから、オレ達、ニックとは二度と口を聞かないって誓いあったんだ」
ひと月後、二人はジャーゴに新しいバンドに入ってくれと言っていた。

Nick Jago : monkey man
ポートランドの話に戻ろう。ジャーゴがやっと姿を現し、バンドはサウンドチェックを終えた。
やがて、客が入りはじめ、バンドメンバーは、ファンで埋め尽くされたバックステージでくつろいでいた。 ジャーゴはバナナをもぐもぐしながら、80年代初頭の粗悪なテレビ番組の話をしている。
「マニマルって番組、憶えてる?」
眠た気なイギリス訛りで訊ねる。
「男がいろんな生き物に姿を変えるやつ、あれ、好きだったんだよね。もし、オレらが動物だったらって考えたんだ。オレは猿、ピーターは狼かな。で、ロバートはというと…コウモリ」
そいういって、ジャーゴはそのエキゾチックな生い立ちをうかがわせるくっきりとした眉を持ち上げて、激しく笑った。
彼は、イランで、ペルー人の母とイギリス人の父の間に生まれ、イギリスの活気のない海岸の街デヴォンに落ち着くまで、アルゼンチン、ベネズエラ、ペルーを転々とした。(この少し複雑な移住がよく知られているヴィザ問題を引き起こしているかもしれない「FBIにとっては、あんまり印象よくないようだね」と彼は言う)

ジャーゴは、音楽一家に育った(母と兄はギターを弾く)が、彼は楽器には興味を持たなかった。そのかわり、画家になろうと、ウインチェスター美術学校に入学した。1996年に両親が離婚し、母と兄弟はカリフォルニアへと発った。徐々にウインチェスターにいることに満足できなくなり、また、規則違反が目にあまったためにとうとう彼は放校されてしまった。
「たいていは、音楽をやりたくなったからアートスクールをやめたんだって言ってるんだけど、本当の理由はアタマがおかしくなっちゃったからなんだよ。躁鬱みたいな感じで。今までに一度しか起きてないんだけど、ほんとマジでひどかったんだ。ドラッグとかとは全く関係なく、6週間ずっと凧みたいにハイで、その後6週間はマジで落ち込んでた。多分人生のターニングポイントにきてたんだよ。何かやらなきゃって感じで」
ジャーゴはイギリスを出て、ベイエリアに落ち着いた。その後2年間は全く厳しい状況が続いた。
「どこにも居場所を見つけられなくて、マジで落ち込んだよ。サンフランシスコの最低の、奇妙な仕事をしてたのさ」
最終的に、ジャーゴは、バークレイのMod Langというレコード屋に集まっている音楽にとりつかれた連中と、毎週330 Rich Streetで行われているPop Scene Nightというイベントを見つけた。彼の、ブリットポップとクリエイション・レコードに対する情熱が開花しはじめた。そして、隣人から、最初のドラムキット(Vistaliteのセット、今も使用中)を譲り受けた。
「ミュージシャン求む」と、地方紙にジャーゴが出した広告に反応してきた人々の中にロバート・ターナーという内気なベーシストがいた。ある日の午後、一緒にプレイしてみたが、そのときは何も得られなかった。しかし、その後二人は、街のクラブやレコード屋で顔を合わせるようになった。ターナーと会ってまもなく、ジャーゴは、イースト・ベイのコーヒーハウスをぶらついている時に、凄いギタリストのうわさ話を耳にした。
「こういう話なんだ。「ちょっと変なヤツなんだけど、ギターがすっごく上手いんだ。そいつはそこのガソリン・スタンドで働いてるんだ」ってね」
「ある晩、サンフランシスコでパーティがあって、オレはその男にガソリンスタンドでばったりあったんだ。そのときはちらっと視線を交わしただけだったよ」
数ヶ月後、the Waveのライブで、ターナーがあのガソリンスタンドの愛想のない男とステージに上がっているのを見てジャーゴはショックを受けた。
最初の出会いでけんかになったにもかかわらず、ターナーとヘイズは1998年のハロウィンの夜、ジャーゴを呼んだ。トリオ──自らをthe Elementsと名付けた──は、ターナーのリビングで7時間休みなくジャムっていた。
「ハマったんだ」ジャーゴは、控えめに言った。「オレたち、完璧にハマったんだよ」

Portland July 21, 10:23pm
ライトが落ちたとき、クラブに詰め込まれた500人あまりの人の波がステージに打ち寄せた。
ターナーはレッド・ブルを飲み干すと、部屋の角に投げた。ヘイズは神経質そうにチェーンスモークし続けている。ステージまでの階段を下りていくとき、ジャーゴが二人に何か耳打ちした。
拳を振り上げ、磨き上げられたヴァージョンの“Spread Your Love”で、3人は登場した。その次は比喩が衝撃的な“Six Barrel Shotgun”だ。彼らは曲の間に少しだけ喋り、新作からほとんどの曲を演奏した。そしてアンコールは、壁のペイントがはがれ落ちるのではないかというほどの凶暴版の“Whatever happen to my rock’n’roll”だ。

ライブ後、ターナーとジャーゴは、ガールフレンドのところへ行き、ヘイズ(現在ロマンスはごたごたしている)は、一人飲もうとそこに残った。無愛想なバーの女性が、もうお仕舞いだと言ったので、彼は黙ってツアーバスにビールを取りに行った。パトカーがヘイズの目の前で、タイヤをきしらせて止まったとき、彼はクラブの裏の通りでビールを飲んでいた。警官がショットガンを振りかざし、攻撃態勢で現れた。そして、またもう一人、銃を構えた警官がそれに続いた。一瞬その場は凍りついたが、ヘイズはすぐに警官は彼をねらっているのではなく、通りの先にいる銃を振り回しているおかしなヤツが目標なのだと理解した。銃撃戦に巻き込まれてはまずいと、ヘイズはバスに逃げ込んだ。
ありそうもないことだが、ここ二日で銃撃戦に巻き込まれそうになったのは2回目だった。24時間前、LAの渋滞にハマっているときにも、銃がらみのゴタゴタに遭遇している。
「俺たち、そういうのに巻き込まれやすいんだ」たばこをもみ消しながら、ヘイズがこともなげにつぶやく。「とりつかれてるんだと思うよ」

Seattle July 22 1:33pm
「なんでここにいるんだか、わかんないんだ」ロバート・ターナーがぼそぼそと言った。ヴァージンレコードの社員が、「アバクロンビー&フィッチ*」や「ポタリー・バーン*」のアウトレットのようなきれいすぎる2階建てのDMX*の本部に押し込めようとしている。「だいたい、俺たちは役に立つっていうより、害になって終わるんだけどさ」
ターナーとジャーゴはレコード会社の人間を外に残して、DMXのカメラマンとプロデューサーと一緒に狭苦しいオフィスに入っていった。なにやら緊張感が漂っていて、小さな声が漏れてくる。二人はサングラスをかけたままだ。インタビューだと思っていたのに、DMXがインストアで流すスポットの撮影だということが露呈していた。
「あ〜、ブラックレベルモーターサイクルクラブだよ。ご覧の番組は…えっと…スケッチャーズTV」
ターナーとジャーゴはハメられたと気づくにつれ、話しっぷりに苦痛が増してきた。
「ハイ!俺たちBRMC、で、君らが観てるのは…スピンTV」
5つ目のスポットまでは、どうにもおさまらない様子のジャーゴが途中でやめてしまうまで、 何とか終わらせた。
「もう一回訊いていい? これってなんのためにやってんの?」
プロデューサーは、マルチプラットフォームのクロスプロモーションについて、ものすごい数の15歳〜24歳くらいの女の子がこれを観るんだと説明しようとした。ぽかんと見つめるジャーゴのアタマには何一つ入っていかない。
「ニック、頼むよ、そのうち15〜24のギャルに気にかけてほしいって思うようになるさ」
多少協力的なターナーがジョークを言う。
「CMやってるだけじゃん」ジャーゴがきっぱりと言う。
こんなプロモなんかは、へっちゃらで軽々とこなしていくミュージシャンに慣れているDMXのスタッフは、呆然とした。
最初に約束したQ&Aセッションをやるということでバンドは、折れたが、結局それもおきまりのやりとりで、ただのこじつけにすぎなかった。カメラマンは雰囲気を明るいものに変えようとDMXのマーケティング部が寄せ集めた「面白い」質問に答えるようにしたらどうかと言った。
「そんなのに奴らが答えたがるわけないだろ」すっかりやる気をそがれたプロデューサーが言った。彼は、大きく息を吸い込み、質問を一つ、大声で言った。
「オーケー、もし君が、ブルージーンズだとしたら…」
ターナーとジャーゴは緊張した面もちのヴァージンの社員のそばをすり抜けた。社員は、もうほとんどドアの外に飛び出してしまった二人に追いつこうととしていた。

LA story
Brian Jonestown Massacre(サンフランシスコのバンド、LAに拠点を移していた)の成功に励まされ、エレメンツも、1999年、南へと移動した。
LAでの反応は、急激で劇的だった。数ヶ月の後に、バンド(そのときすでにBRMCと名乗っていた)と、13曲入りのセルフプロデュース、セルフレコーディングのプロモ盤は、ハリウッドで一番ヤバいものになっていた。
インディー精神にのっとり、多国籍企業のお偉いさんや、リック・ルービンの豪邸での食事やら、ノエル・ギャラガーのレーベルビッグ・ブラザー・レコードへの誘いなどをことごとく避けてきていた。さらに拒否し続けていると、もっとしつこい奴らが彼らを追ってくるようになった。
彼らがこだわったいたのは、他のバンドが欲しがるような莫大な前金などではなく、ただ一点、完全なクリエイティブ・コントロール(レコーディング、スリーブデザイン、ビデオに至るまで)だった。最終的にバンドは契約金を少なくしてでもクリエイティブ・コントロールの保証を優先させるとして、ヴァージンと契約した。
「もし、メジャーレーベルにそぐわない質だということを契約の前に知っていたら…」もとヴァージンのA&Rのトニー・バーグ(現 Artistderect社長)は言う。「感情に訴えかけたり、プライベートな部分で何とかするべきだったんだろうけど、「不信感」というのがあっているのかはわからないけど、彼らは、その殻に閉じこもってしまって、とても踏み込めるような状態ではなかったんだ」

バーグは「難しい」アーティストにはどう対応するか、承知している。彼のキャリアは伝説のワイルドマン、ジャック・ニッツェの見習いとしてスタートした。後に型破りな才能の持ち主であるエイミー・マンや、ジョン・ライドンからザ・リプレイスメンツ(BRMCとよく似ていたとバーグが後に語った)などを担当してきた。
BRMCのセルフタイトルのデビューアルバムを作る作業は困難を極めそうなことがわかってきた。バーグが気づいたところによると「自分が関わった仕事でも、もっとも奇妙なプロセスを踏んで」いたらしい。
アルバム「B.R.M.C.」は、デモから7曲、契約をしてから録り直した6曲をとり混ぜたものになった。
アルバムは2001年4月にリリースされた。BRMCの扇動的なデビューは(ストロークスやホワイトストライプスにメジャーレーベルが目を向ける前に)「Rock is Back」レボリューションに最初に火をつけたと言われている。
「1枚目のレコードの仕掛けは、契約上クリエイティブ・コントロールを与えられたってことなんだ。それが理由で契約したわけだし…だけど、それは、どこかにしまわれてしまう紙切れに書かれた言葉にすぎなかったんだ」ターナーが言う。「レコードの一部を自分たちで作れたのは、さい先のいいスタートだったと思う。ほとんど何も訊かれずに大部分をやってしまったんだ。だけど、A&Rとかそういうのとかの関係で、だんだん信頼っていうか、信用がだんだん薄れていったんだ」
バンドは突然、ヴァージンとの大バトルへと突入することになった。
「不快で、困難だった」ターナーが言う。「アルバム制作のエネルギーをそのバトルとやらなくてもいいようなことをすることに費やした感じだよ」
バーグは「彼らが他の意見など聞き入れないんだという点を何とかするべきだったんだ」と言う。
「自分たちの時間を犠牲にして、解決したんだ」ヘイズが言う。「こういうことさ、“自分で何をやってるかわかっている人に、それができるからといってクビを突っ込んでくる必要があるんだ?って”そんなの、全く面白くないよ。それじゃあ、バンドにとっての「過程」がないだろ」BRMCとしばらく一緒にいると、その「過程」の重要性がわかってくる。彼らは(彼らの曲にあるように)何か、見えないものを愛しているんだ。遠く、抽象的な自分たちや自分たちの音楽に対する夢みたいなもの。そしてそれがなるべき姿。夢と同じように、言葉にすることに対して、そこまで抗うのか(見慣れない部屋でプロモーションの決まり文句を口にするのがどうしてそんなにも苦痛なのか)がわかってくる。同じようなことで、彼らのビジョンをグループ外の人にはっきりと伝えるには強固な言葉の壁がじゃまをする。
「俺たちは、どうしたいか説明するのに言葉をあんまり使わないんだ」ヘイズが認める。「だから、プロデューサーとかそういう人と一緒にやらないんだ。俺たちが使っている言葉は、他の人には通じないんだ。他の人には理解できないんだよ」

Robert Turner : True Faith
DMXの外で、ターナーはひどく腹を立てた様子で、まるで頭が今にも爆発してしまうかとでもいうように頭を抱えて角のところに座り込んでいた。
「うーん」彼は、なにやら悲しげに言う。「彼らがオレたちをすぐに連れ戻しに来るとは思わない」
ターナーは他の誰よりもミュージックビジネスのことを理解している。彼の父マイケル・ビーンは、80年代の特にスピリチュアルなバンドであるザ・コールのメンバーとして知られている。一方、彼の母は、ルター派の牧師*である。ありふれた感覚からすると、奇妙な組み合わせの両親である。
ロバート・リヴォン・ビーン(ミドルネームは、ザ・バンドのドラマー、リヴォン・ヘルムに敬意を表してつけられたもので、ターナーという名前は映画「パフォーマンス」でのミック・ジャガーの役名である)は、サンタクルズで生まれた。しかし、育ったのは、イースト・ベイである。
ターナーのもっとも古い記憶は、父親のターンテーブルの上でくるくる回るレコードのラベルを見ていたというもの。クラッシュ、スミス、特にジョイ・ディヴィジョン。
「三つか四つの頃、そうやって回るラベルを見ているのが好きだった」と、ターナー。「暗い音の壁の後ろ側に、すばらしい子供っぽいメロディーが存在していたんだ。もし、イアン・カーティスが何について歌っているのか理解していたら、きっと気が狂っていただろけどね」
ターナーの子供の頃の音楽に対する興味は、子供時代に父親がツアーにでていてほとんど不在だったことが原因となって、ティーンエイジャー特有の憤りへと姿を変えた。
「息子が成長していくのを、ほとんど見ていないんだ」BRMCのサウンド・マンであり、大切な相談役でもあるマイケル・ビーンは話す。
「彼が5歳になるまでは、一緒にいたんだが、そのあと11年間ツアーに出っぱなしだったんだ。夏休みとか、そういうときに、ツアーについてくることはできたけど、いつも彼は帰らなくてはいけなかったからね、辛かったよ」
The Callはミュージシャン仲間(ボブ・ディラン、ボノ、ピーター・ガブリエルなど)からも敬われるようなバンドだったが、レーベルとの確執や、マネージメントとの訴訟などが続いていた。どうにもならない困難な経験を父親を通して見ていたターナーにとって、ロックンロールは魅力的で心惹かれるようなライフスタイルだとは思えなかった。
「仕事としてしか見れなかったね。しかも、ほんとにきつい仕事として」「だから、関わりたくないと思っていたんだ。だって、親父がどんな目に遭ってるか見ていたんだから。辛くて、困難な生き方なんだ」
「それに、音楽に何かができるなんて思っていなかったんだ、だから、音楽も聴いていなかった。いい面を知らなかったから、ただ、それに反発していたんだよ」

その反抗的なスタンスが弱まったのは、ターナーが10代の時に初めてRideの”Leave them all behind”を初めて聴いたときだった。
「そのとき、180度考え方が変わったんだ」
ターナーはシューゲイザー初期のことについて話す。
「まるで、新しい目と耳を得たみたいだった」
Rideが、Pixies、Stone Roses、Verve、果てはストーンズや、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ニール・ヤングまで続く扉を開いた。
この発見によって拍車がかかったターナーは、中学生の時にベースを手にした。父親からのアドバイスは、ただ一つ、「誰にも教わるな」ということだけだった。

ジャーゴと同じように、ターナーのティーンエイジャー特有の倦怠は両親の離婚により、さらに悪化した。そして後に、ジャーゴとそっくりに奇妙な躁鬱的な出来事にも遭遇した。
Acalanesハイスクールで過ごした日々は、さらにのけ者感を募らせた。裕福で、身なりのきちんとした生徒たちとはなんのつながりも感じられなかった。
ある日、授業の合間に、ターナーはもう一人の自称のけ者、ギターを担いで歩くピーター・ヘイズをじっと見ていた。
「気になってる女の子がいたんだ」「で、ピーターがその子にギターを教えようとしているのを見かけたんだよ。オレは、ヤツが彼女につきまとってるんだろうって思ったんだ。だから、ちきしょーって。ジャマしてやろうとした。その女の子に何があったかわかんないんだけど、いつの間にかそのコはいなくなって、ピートとオレが一緒につるむようになったんだ」
ヘイズの学校でのミュージシャンぶりは、ポーズではなかった。彼はすでにプロのミュージシャンだった。
「の、ようなもの」だとターナーは笑う。「ヤツがバーで、ギグをやったんだ。エフェクト・ペダルとギターとヤツだけのね。妙なフォーク/サイケな感じだった。そりゃひどいもんだったんだけど、同時にそこになんかものすごいものがあったんだよ」

ヘイズの音楽的知識は、全くクラシカルなものだった…ヘンドリックス、ピンクフロイド、ディラン、古いフォークソングやカントリーなど。ターナーはヘイズに大好きなポストパンクやイギリスのバンドの曲を聴かせた。そして二人は、ターナーが言うところのジョイ・ディヴィジョンとニューオーダーのパクリみたいな曲を書き、レコーディングした。

16歳の時のヘイズは辛い過去のせいで自分の車で暮らしていた。彼が一時的にでも「家」と呼ぶ場所からはことごとく力づくで、追い出されていたのだ。
ヘイズは最終的に、ターナーの家に越してきた。そして、二人はどちらもそれを言葉にすることはできないが、(ロックンロールの世界に生まれ変わったダモンとピュティアス*のように)兄弟のような忠実な関係を作り上げた。
ターナーと同じく、ヘイズも独学のミュージシャンだった。フォーマルな構成や、何をするにもうさんくさい確立されたやり方に逆らっていた。二人は一緒に、何年かの間に奇妙なチューニングを発明した。
「まだ準備ができていなかったんだ」と、ターナー。The Waveを結成する前のことだ。

Seattle, July, 22, 10:31 pm
「あ〜な〜た〜た〜ち〜を〜、観るためだけに〜来たの〜!!」
スピーカーから鳴り響く音楽と、客の喋り声の中で、シアトルのグレースランド・バーでは何も聞こえないような状態だった。だから、ロバート・ターナーに話しかけている二人の若い日本の女の子はBRMCを観るために、5000マイルほど東京から飛んできたのだと、大声で言わなくてはならなかった。彼女らは、何度も繰り返させられていた。彼女らのブロークン・イングリッシュのせいではなく、ターナーが、自分たちを観るためだけにそんな遠くまで旅をして来るというのが、把握できなかったからだ。

2000年の終わりから、2002年のはじめまでの間に、BRMCはアメリカを6回縦横断した。その間に300回を越えるショウをこなした。
「そこに戻るたびに、客の数が増えていくんだ」ターナーが言う。
根気強いロードワークと、安定した歓迎する批評も手伝って、デビューアルバムのセールスは外国でも予想を上回った。にもかかわらず、BRMCとレコードレーベルとの関係は2002年のはじめには、ますます怪しげなものになってきていた。それは主に、ヴァージンのここアメリカでの力があまりないということによるところが大きい。
「オレたち、アメリカでもっと上手くやりたいってものすごく思ってるんだ。オレたちは一生懸命やってるのに、誰も手を貸そうとしてくれないんだよ」と、ターナー。「同時に、おそらくオレたちはこの新しいムーブメントの最前線のバンドの一つなんだ」
結局、BRMCの不満は前年の2月にレーベルを去ったA&Rのバーグとの不和に帰着する。その2ヶ月後、人員を一掃しヴァージンの新社長Matt Serleticのもと、一からヴァージンでやり直そうということになった。辞任していった元のヴァージンのお偉方は最後の一矢として(ターナーがほのめかすところによると)いわゆる復讐として、アメリカの小売りが要求するだけのアルバムを製造しないという手段にでた。
「長い間、レコードが出回っていなかったんだ」と、ターナー。「最近になって、だんだん店に入るようにはなったんだけど、あれはほんとにきつかったよ」
また、差し迫った問題は、9.11以降のブッシュの移民に対する厳しい政策によるものだ。ジャーゴが(アメリカでのヴィザがどうひいき目に見てもヤバいことになっていて)無期限にイギリスに戻らなくてはいけないことになりそうなことだった。(結果として、バンドは何日かをVerveのドラマーPete Salisburyに代わってもらうことになってしまった)
結束の固さは、ここでも見られた。ターナーとヘイズは去年(2002年)の後半にイギリスへと渡り、ジャーゴとともにセカンドアルバムのレコーディングに入った。
UKの滞在が長くなったことにより、彼の地での地位はまさにスーパースター級にまで上昇し、雑誌の表紙を飾り、オアシスのスタジアムでのショウのオープニングを務め、アルバムはプラチナディスクになった。その成功はMTVで「Whatever Happen To My Rock’nRoll」や「Love Burns」がオンエアされることによって海のこちら側にも響いてきた。

二枚目のアルバムは、ロンドンのメイフェアスタジオで、昨年(2002年)の終わり頃に制作に入った。バンドはそこでリズムトラックをレコーディングし、フォートレススタジオの小さいレンタルルーム(一日35ドル)で8日間かけてアルバムは見事に完成した。厳しいツアースケジュールからすれば、「Take Them On, On Your OWn」の大半の曲がツアー中に書かれたものだといってもさして驚くことではない。時にはサウンドチェック中に、多くはステージ上で曲は作られた。オープニングトラックの「Stop」(おまえのことを好きなわけじゃない、ただ試してみたいだけなんだ)は、ロンドンのライブで「Fail Safe」(「Screamning Gun EP」より)のベースのエンディング部分から派生したものだ。同じように「Heart + Soul」はステージ上での 「Salvation」の試行錯誤から拾い集められたものだ。
「TTO, OYO」は、粗暴できつい音の襲撃だ。スピーカーから、乱暴なギターと推進力のあるリズムが跳ね出す。さらに暗示的なグループの力強さを増したサウンドが比喩的で好戦的な詞と組合わされる。BRMCは、そのデビューは、子供っぽくほとんど初歩的ともいえ、テーマには基本的な問いがとり散らかっていたり(”Whatever happen to my Rock’n’Roll?)、宗教的なイメージがちりばめられている(”Jesus, when you coming back?)と認めている。
「(信仰や信頼に対する)シンプルな問いは、失いやすく、忘れられやすいものなんだ」と、ターナー。「その点で、ファーストは普遍的なものだった。受け入れてくれる人に受け入れてもらえるようにしたんだ。それ以上のことはできなかったんだ、まだ覚悟ができていなかったんだ。けしかけたり、非難したりするものではなかった。ニューアルバムでは、もう線引きをしてもいい頃だし、自らを危険にさらすようなことをするのにためらいはなかった」
新曲の多くは(「stop」「six barrel shotogun」「generation」)BRMCのMTVで育った新参者に対する悪意のある言葉のようにも聞こえる。一方他の曲(「shade of blue」「Rise or Fall」)は個人的で貫くような痛みを感じるものもあり、また、帝国主義へのアンチテーゼの暴言を吐くようなもの(「US Government」)もある。BRMCのようなバンドにとって、同世代のオーディエンスに向かって「この世代にはしっくりこない」のように、ダイレクトに吐き出したり、比喩的に「おまえを殺したい、だけど必要なんだ」のようなことを言うのは、計算ずくのリスクである。去年(2002年)のロンドンでのショウで初めて披露したとき、ヘイズには迷いがあった。ターナーが言う。「ピーターがこう言ったんだ。『できるかどうかわからない、相手の目を見て、これを言えるかどうか、わからない』って」
その心配も、シアトル、グレースランドにバンドが到達する頃にはすっかり消えていた。真っ白なライトが並ぶ中で、ジャーゴが解き放たれたようにドラムを激しく叩き、ヘイズは新曲をすばらしい情熱を持って吐き出した。BRMCは閉塞感や錯乱や疑念のようなサイコシスを共有し、激しい音を全開にする。ターナーが群衆の中に突っ込んでいき、セットはクライマックスを迎える。彼がベースをかき鳴らすとき、青いまぶしいスポットライトが彼の髪を浮き立たせる。「I’d Kill you all, but I need you soooooo」
まてよ、どんな意味があるんだ?戯言をまき散らすだけなのか?*1
「うーん、自分の言ってることは信じた方がいいってことだよ」と、ターナー。「理解してないとしても、手にいれられるものなんだ」

Peter Hayes : Complicated Situation
汗がピーター・ヘイズの巻き毛の先から落ちる、かがみこみ、詩の一編を読み始める。
「4と6 行ったり来たり このシーンの前に5回 誰もが口にするのは、夢など見たことがないという言葉」
午前2時、BRMCのクルーが機材を片づけ、残っていたファンも外に出された。ジャック・ダニエルのストレートを飲み、酔っぱらっている。ヘイズはまた少し近づく。
「若さを犠牲にしなければならない 力のない笑顔を見せて言う 若き者の目は道を失い、ここで躓いている」
新曲の詞だ。ディラン的な、熱に浮かされた夢。
「Complicated Situation」ヘイズが書いた。
タイトルはそれを書いた者を完璧に表現している。BRMCのメンバーの中で、ヘイズは一緒に出かけるのにはたやすい相手だが、話すのは難しい。ターナーもそうだが、ヘイズが話すときは、…長い…言葉を探す…ポーズが…言葉を分ける。
「ピーターが何も言わないとき、ヤツの頭の中で何が起きてるかオレにはわかるんだ」と、ターナー。「ほんとだよ」

ヘイズは瞑想しているわけではない、バンドを分析するのは好きではないし、自分のことを喋るのを嫌がる。「心のマスターベーション」と彼はそれを呼ぶ。一度その手強いガードをはずすことができたら、なかなか出会えない面白い人間である。たとえ、彼との間柄がトニー・バーグのように障害の多いものであったとしても。
「ピーターは、信じられないくらい美しく、ロマンティックな心の持ち主なんだ。彼が君に対して疑いを持っていなければね」
苦悩に満ちたような瞳や、ストリートチャイルドのような態度。ヘイズの持つ、ディケンズが書くような贖罪の物語を知りたいという衝動を駆りたてる。

ヘイズの生まれたカリフォルニア、マルティネスは、サンフランシスコの中心部から30分ほどのところだが、決まり文句を使えば、まるで1万マイルも離れているようなものだった。マルティネスは、工場や精製所そして工場の煙突がパッチワークをなしている。とはいえ、ヘイズは歩けるようになる前にそこを越している。しかし、そのくすぶるような町の一部は、まだ彼の中に残っている。
ヘイズの父はブルックリン育ちで、町暮らしをあとにし、もうそこには帰らないという夢を持っていた。彼はニューヨークミルズ、ブレイナード近くの190 エーカーの農場で働くために、家族を連れてミネソタへと移動した。(ボブ・ディラン・カントリーだよ、とヘイズは自慢げに付け加える)
「冬には木を切り、干し草を作り、羊や牛にえさをやった。どんな仕事もしたよ」
まだヘイズの話しぶりには北部の田舎特有の引きずるような話し方が残っている。朝には、スクールバスに乗るために、半マイルほど歩かなくてはならなかった。町まではさらにバスに長く乗っていなくてはならなかった。学校では世界がどのように分断されているのかを知るためのレッスンを受けることになる:農民と都会の人、貧乏人と金持ち、オレたち対アイツら。そのことについて今まで考えなかったことはない。
10代になった頃、銀行が農場に対する請け戻し権を失効させた。ヘイズは、母親と祖父と一緒に暮らすため、ベイエリアに戻ってきた。
彼が言うところによると、「ある日、あまり退屈なんで、母さんのアコースティックギターを手にしてみようかと思ったんだ」
ヘイズはブルースと、エフェクトの突然変異がぶつかり合うような自分のプレイスタイルをヘンドリックスのスマッシュヒッツ、ピンクフロイドのウマグマ、ストーンズのビッグヒッツといったすり切れたレコードからフレーズをいただきながら創りだした。
16歳ぐらいから、話は曖昧になってくる。
家でゴタゴタがあったとか、学校で問題があったとか、法に触れるようなこととか。
家族に配慮して、細かいことは話したくないのだと言う。(これは、多分本当のことだろうから、彼の過去のゴーストを揺り起こすことはしたくないという彼の気持ちをくんであげてほしい)
「ヤツは、辛い時期だったんだ。車で暮らしてたんだ」ターナーが言う。「うちに来るように言ったんだ、だって行くところがなかったんだから。彼は受け入れたよ、うちの前に車を停めるってことで、家の中で暮らさなかったんだ。うちの前に車を停めて、バスルームを使うくらいだったんだ。それが、精一杯だったんだよ。だって、今までいたところは結局どこからも追い出されてて、(そのころ、ヤツは短気だったんだ)だから、もうそういう目に遭いたくなかったんだよ」
最終的には、ヘイズは、時折家の中に入ってくるようになった。

高校を卒業するとすぐに車でアメリカを巡り、また北カリフォルニアに戻って様々な労働に就くまで、孤独な放浪を続けた。しかし、最終的に(必然的に)ヘイズはターナーの元に、ロックンロールの元に戻ってきた。
「このバンドにいなかったらどうなってたかわからない」と、ヘイズ。「多分、メカニックかなんかになっていて、音楽を完全に憎むようなヤツになってるんなじゃないかな。うん、多分そういうヤツになってたよ」
そういったブルーカラーの運命論は、ちょっとしたポーズだ。現実に、ヘイズは最高の、真実のアーティストだから。たとえ彼が、数えるほどしかレコードを持っていなかろうが、本を読んでいなかろうが、彼は彼自身で小さな図書館をいっぱいにしてしまえるくらいの話、詩、歌を書いているのだ。彼と長く話していると、政府について、教会や音楽業界にについて、協力的にいくらでも喋ってくれる。たとえ、BRMCが成功してからも、彼の出し抜かれるのではないかというパラノイアは減らない。
「それって、うつりやすい病気なんだよ」ターナーが笑って言う。「ピートに会うまでは、オレは何ともなかったのに。ほんとだよ。ピートはだんだんよくなってきたのに、今度はこっちが悪くなってきちゃって。でも、オレに言わせればまだ、ヤツがリーダーなんだよ」
ストーリーはこれで終わりではない。本当のピーターヘイズは、たまにしか見せないが、夢想的な哲学者でもある。
「ナンバーワンには用心しろっていうけど」「誰も信じるな、自分のことだけをかまってろって言うけど、そんなのクソだね。 なんか他のやり方があると思うんだ、コミュニティーとかそういうようなやり方で。アートを通じて、メディアや雑誌を通して」
「やりなおすんだ」ターナーが付け加える。「でも、ほんとのところは希望のない楽天家なんだ、オレたち。まるで正反対のように見えるけど、オレらが感じているのは、そういうことなんだ。でも、やめない。ピーターも諦めないんだ、物事は変えられるって。きっとよくなるよ、言うだけの価値はあるさ」

グレースランドに話を戻そう。「complicated situation」の最後のフレーズを披露しているヘイズは、さらに前のめりになっている。彼は、微笑む。なぜ、自身の人生を人に明かすのを拒絶する人間がアートにおいては簡単に彼自身を表現できるのか不思議に思うだろう。
「実のところ、周りの人たちにどんどん分け与えているような気がしてるんだ、ここのとこ。“そんなことするな、やりすぎだって、そのうち自分がすり減ってしまう”って、ほとんどの人は言うね。でも、そんな生き方はしたくないんだ。何もなくなるまで与え続ける方がいい」

San Francisco July 24, 4:33pm
黒いストレッチリムジンのスモークグラスの窓が開いて、なめらかな黒い顔が現れた。
「おい、あんた、ブラック・レベルズを迎えにきたんだけど、あんたたちどこにいるか知らないか?」
シアトルの時と同じヴァージンの人間にベイエリアの最大のオルタナロック局、LIVE105のスポットに出演するために追い立てられていた。ドライバーがリムジンのドアを押さえている。彼らは、目の前にあるでかいリムジンに少しやる気をなくしているように見える。
BRMCは、リムジンに乗ることに対してルールをもうけている。それに、レコード会社には、リムジンをよこさないように厳しく言っているのだ。前に一度だけこのポリシーが問題を引き起こしたことがある。ボノのニューヨークでのスターを集めたショウの時のことだ。どうあれ、レッドカーペットにフォードのバンで乗り付けるというのは、軽率なことのように感じた。
しかし、今日はそうするしかないようだ。彼らはリムジンに乗り込んだ。革のシートに体を深く沈めると、ターナーはサングラスをはずして、目をこすった。ヘイズはガラスのデキャンタからウイスキーを注ぎ、たばこに火をつけ、窓の外を見た。アメリカでニューアルバムが出るのが明日に迫っている。バンドのスケジュールは分刻みでおさえられている。5つ以上のフォトセッション、その中には有名ゲイ・ポルノサイトのものもある。インタビューは1ダース。その前にラジオ出演だ。
「今朝、ライターにアレルギーはあるかって訊かれたよ」と、ヘイズ。「それから、子供がいるっていうのは本当か、とも訊いてきた。だから言ってやったんだ。“あんた運がいいね、今日は機嫌がいいんだ。だから、あんたにはなんの関係もないねと言ってやるよ”ってね」
メディアとマーケティングの大キャンペーンは、アメリカでBRMCをブレークさせるためのヴァージンの努力の一部だ。バンドのデビュー作はアメリカで最終的に10万枚までいった。なかなかいい兆候だが、イギリスで40万枚を記録したのに比べると、ひけをとっている。アメリカのバンドが陥ることのあまりない全くあり得ないシチュエーションに彼らは陥っている。今年のはじめ、ヴァージンのお偉方が、「Take Them On, On Your Own」をアンディ・ウォレス(リンキンパーク、リンプビスキット)にミックスさせようとしていた。バンドは試しにやってみることに同意したが、ウォレスのサンプルをもらうと、彼らは呆然とした。
「彼を責めるつもりはないよ、でも、オレたちにとって…うーん…それが違うところから出てきたとき、それはもう、オレたちのバンドじゃなかったんだ」ヘイズが言う。「ラジオでかかってる、他の多くのバンドのように聞こえたんだ」
バンドは、また、あのファーストの時のような辛いヴァージンとの闘いが繰り返されるのかと心配した。しかし、新しいA&Rのデヴィッド・ウォルターの助けもあり、バンドは友人であるケン・アンドリュース(AIR、Pete Yorn)と共に自らの手でミックスを完成させた。
DJジャレッドが両手を広げてブースで待っているLive105のスタジオへのエレベーターの扉が開いた。彼はすぐに歓迎の意を表した。何かいやな予感がする。ジャレッドは痛快な皮肉を言ったり、きついジョークを言ったりするようなハイエナジーなドライブタイム*のDJだ。普段ならがんにかかった小さな子供さえネタにしかねない。ヴァージンはBRMCにとって、このようなシチュエーションを限りなく最小限におさえようとしたが、メインストリームのラジオの世界というのは無慈悲だった。
ラジオ出演や、フェス出演は、必要悪なのだ。BRMCは破滅に追いやられるような気分でそれに臨んだ。ジャレッドのハイパーアクティブな悪ふざけについていこうとしたが、彼らは、ラジオには向いていなかった。とぼけたユーモアと、言葉の間の空白は、デッドエアー*とされてしまう。DJにしてみれば、この上ない悪夢。ジャレッドは、ジャーゴのヴィザ問題を聞いてみようとがんばったり、the callの曲を一部分流したり、彼らを刺激できることは何でもした。ただ一つ、彼はヘイズを怒らせるというミスを犯した。ここに他の人がいなかったら、ヘイズはDJの顔を殴りつけるのではないかという雰囲気があった。彼は、あごを突き出したまま何も言わなくなってしまった。20分のスポットはありがたいことに終了し、バンドは出口に急いだ。
エレベーターの中でヴァージンの人間はいらだちを隠すことができなかった。
「あなた達にはかなわないわ」
ターナーは舌を見せると何か聞こえないようにぶつぶつと悪態をついた。リムジンに戻ると、彼らはラジオをつけてジャレッドがドッグフードのコマーシャルをやり、311のニューシングルを興奮したようにかけるのを聞いた。ジャレッドは「これがイマの音だぜ!」と紹介した。
まだまだ、やることはある。
まだバンドにはやることがあるにしても、ヨーロッパでのBRMCの成功は期待を大きく上回っており、超現実的ともいえる。2001年の、レトロ・ロックのリーダーとして、彼らにストロークスのような不良少年っぽい魅力や、ホワイトストライプスのような目新しいダイナミックさがなくても、商業的には、これらの同僚たちと匹敵している。
「今はもう、別の生き物なんだ」ターナーがバンドの変化した現状について言う。「ヴァージンはオレたちが金になると本気で思っているようだけど、それは間違ってると思う。あらゆる方法を尽くしてもね」
心配事はあるが、BRMCは一応レーベルとの決着をみた。ヴァージンは親が才能のある問題児のわが子を好きにさせるように、バンドがやりたいようにさせることしたようだ。しかし、その才能はスタイル変更の曲がり角に立っている。BRMCはすでに3枚目のレコードの曲を書いている。それは、そのキャリアを守る新しい門出となるだろう。ターナーが彼のノートパソコンに入っているのを聴かせてくれた6曲ほどの新曲は、生のブルース、ひきずるようなカントリー、透明なゴスペル、それらはjesus and mary chainの名前を引き合いに出されることに終止符を打つだろう。そして、ストーンズ、ディラン、サム・クックなどと比較されるようになるかもしれない。 BRMCはメディア、ファン、レコード会社の誰よりも、クリエイティブに素早く動いているのだ。

San Francisco July.24,10:37pm
303 Ritch Street、ターナーとジャーゴが何年か前に初めてあった場所、週末ごとにPop Scene nightが行われていた場所に、彼らは帰ってきた。BRMCは、今夜のスペシャルゲストだ。小さなクラブはソルドアウトしており、それでも何百人もの BRMCの熱狂的なファンが中に入りたいと願っている。外は暑く、混み合っていて、セキュリティは、多くのロックファンたちと取引をする雰囲気はない。今にも沸騰しそうなテンションが、爆発したのは、バウンサーがジャーゴのことをバックステージに潜り込もうとするファンだと取り違えたときのことだ。華奢なドラマーをでかい奴の腕が阻んだとき、ヘイズが素早く跳ね上がって、ジャーゴをかばい、もう少しで「I LOVE HIP-HOP」Tシャツの300ポンドはありそうな巨大な男につかみかかりそうになったのだ。「ヤツがオレたち全員まとめて吹っ飛ばせることぐらいわかってたさ」怒りが収まらないヘイズが言った。「それがどうだってんだ」。ショウの直前、ターナーは、クルーの一人に閉め出されたファンを集めて裏口から忍び込ませるように指示した。本気で怒ったセキュリティがこの策略に終止符を打とうとやってくる前に、ファンの一群が通路を猛チャージした。

BRMCは、真夜中過ぎにステージに上がった。いつものオープニングナンバー「Spread Your Love」をぶっ飛ばした。上機嫌なヘイズは、気の利いたことを言った。「hey, everybody, don’t take the brown acid」*だが、ここはウッドストックでもアルタモントでもない。右から、左から喧嘩が起きている。混沌のまっただ中で、マイケル・ビーンは、コンソールのところにすくっと立って、音をなんとか一つにまとめようとしている。流れるようなゴージャスなジャムに突入し、(多分新曲なのだろう)ターナーが即興の詞を叫んでいる。そして、激しいノイズを残して、ショウは終了した。
ショウの後、他のメンバーがバスに乗る前にファンとおしゃべりをしている間に、ターナーは静かな場所を探して、母親と1時間ほど話をした。BRMCのメンバーは(特にターナーは)彼らが振り払おうとしている決まり文句に沿って生きているのではないかと思われることを懸念している。ちょっと前のNMEのカバーのポートレイトには、大げさな見出しで、「ドラッグ、死、パラノイア」とある。
「それも自分たちの一部だけど、それが人生を左右しているってわけじゃないんだ。もしそれが本当なら、気が変になってるか、死んでるか、ここから一歩もでられないようなパラノイアになってるよ」

BRMCから連想される言葉の中で、あまり一般的ではないのがLOVEである。しかし、実際はそれがバンドを動かし、守っているのだ。ターナーのヒーローであり、BRMCの手本とするイギー・ポップやニール・ヤングのように、無形のすばらしさを授けてくれるもの。
「彼らは自分たちのやっていることに純粋な愛を持っていて、それが彼らを輝かせているんだ」ターナーが言う。「安っぽくなくて、ダークで、強烈なんだ。ロマンティックで、情熱的、根性とか、汚さが全部混じり合ってるんだ。新しいバンドで、そういうところが見られるのっていないんだ。ロックンロールが存在しない世界がどんなものか知っていなければ、そこに行き着くことはできないと思う。よくわかんないや。オレたちになんのためにバンドをやってるのか訊く人がいるけど、金か、名誉か、女の子か。オレたちが欲しいのはそんなんじゃないんだ。オレたちが欲しいのは、その「愛」なんだ。何とかして探し出して、手に入れたいんだ」
そういって、ターナーはバスに乗り込んだ。そしてBRMCは「それ」を探し続けるため、夜のとばりに消えていった。

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DMX*は、インストアやケーブル、サテライトなどのテレビ制作会社。
アバクロンビー&フィッチ*はご存じのカジュアルブランド、
ポタリー・バーン*は、日本でいうとアフタヌーンティーって感じか?フランフランかも…。というかんじのインテリアブランド
ルター派の牧師*ルター派は、他の宗派と違って女性の牧師も認めている
ダモンとピュティアス*ピタゴラス派の学徒、美しき友情話あり
*1it is a tale. Told by an idiot, full of sound and fury,Signifying nothing.
人生など愚か者が語るわめき散らすたわ言に過ぎない。そこには意味など何もありはしない。
—– Macbeth: Act 5, Scene 5 からか? sound and furyは、よくロック系の決まり文句としてでてきますが、和訳の決定打が見つけられない…。
ドライブタイム* アメリカのラジオのプライムタイムはラッシュアワーの皆が出勤中にラジオを聴く時間とされている
デッドエアー* いわゆる、放送事故。ラジオの場合は、音がしないのは致命的。
「hey, everybody, don’t take the brown acid」*「hey, everybody, don’t take the brown acid. brown acid is bad」は、ウッドストック開催の時に、MCが言った言葉。
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*このインタビューの和訳の無断転載、引用をお断りいたします。
webmasterの感想文
鯨事件のことすっかり忘れてた…。当時、フォーラムとかで話題になってたもんだね。
動物に例えると…のところ、おもしろい。ニック=猿、ピーター=狼ってのは分かるような気がする。ニックはリスザルって感じ。そして、ピーター狼はぴったりね。ロンリーウルフって感じ。でもなんでロバートはコウモリなんだろう…。
スポット撮影中のニックになんか、感動…。このまっすぐな物言い、いいです! 逆にロバートは上手くやろうとするのに、結局自分が一番怒っちゃう。
言葉にするのが歯がゆいんだろうねえ、何言ってもちゃんと通じないとか…。じゃあ、話してもしょうがないっていう結論にいってしまうんだな。 でも、ピーターの話してるのは、実際私には訳すの非常に難しいとこがある。と言うか、日本語にしずらい…。同じことを違う言い回しで繰り返したりするんですよねえ。なので、ピーターが変なこといってるんじゃないですよ、私の力量不足。
ヴァージンとの確執の話は、昔、レーベルとの契約が切られるかも!?とかって、オフィシャルのフォーラムで騒然としてたことがあったような気がするんだけど、そのころですね、ちょうど。ヴァージン自体が経営がヤバくなってた頃の話かな。
ロバートとピートの出会い、なんか、ロバート、かわいいね。きっと、ピーターはジャマしに来てるなんてみじんも思いつかなかったことでしょう。そのピーターの、「歌えないかも…」発言もなんか、いいなあ。しかし、ロバート、英才教育だよね。3歳でjoy divisionとは!
やっぱり、BRMCの良さは、この真摯な態度だと思いました。ああ、どんどん好きになりますね。裏口からファンを入れる話は、ジョー・ストラマーを思い出しました。
ライターのレトリックには泣かされました。(うわーん、英語力だけじゃなく、日本語力も怪しいぞ>自分)つっこみ大歓迎、英語に堪能な方、誤訳等がありましたらお知らせ下さい。(意訳はあるけど)